Shine or Dust

July 4, 2022

Shine or Dust_pic

写真は撮れば撮るほどわからなくなる。

ここでいう写真は、はっきりとした正解がある商業写真の話ではなく、いわゆる表現写真と言われている類の写真のことだ。

今、表現写真はコンセプトありきと言われている。それは撮る側自身が事前に道筋を描き、伝えたいメッセージを一連の写真に込めて世に発信するもの、と僕は認識している。そして社会的メッセージ性が強い写真ほど評価の高い印象がある。

さらに現代写真は表現方法も無数にある。
それは例えば絵画との同化であったり、自ら撮影をせずにPC上で拾った画像素材を使用したり。

ストレートに撮ることが好きで、社会に一石を投じるような強い野心も持ち合わせていない僕は、常に劣等感を感じながら写真を撮り続けている。もう何年も彷徨いながら、大きな手応えを感じることもなく、ただ撮っている。

目に見えて形にならないもの、明らかに無意味であることをひたすら続けることは恐ろしく孤独であり、苦痛を伴う。
だからしょっちゅう途方に暮れる。

先日、藤岡亜弥さんの写真展を覗いた。「アヤ子江古田気分」と名付けられたその写真展は、写真家自身が学生時代に撮影したもので構成されていて、それには技術や概念などが翳むくらいの凄まじい初期衝動、写真への憧れに満ちていた。

「写真を撮れば撮るほどわからなくなるんです」

在廊していたご本人にそう漏らすと「それはいつまで経っても、私も同じだよ」と答えてくれた。そして今でも衝動に駆られるままにシャッターを切っているとも。

目の前の霧が少しだけ晴れたような気がした。

写真に正解はない。コンセプトが確立していることが正しいわけでもない。その正しさと呼ばれているものは、あくまで商業的な視点からくる判断基準でしかない。

写真はもっと自由で実態が掴めない、宙に浮いている雲のようなもので、少なくとも僕はそういう存在の写真に憧れていたはずだ。

最後に信頼している写真家、金村修さんの言葉を記しておく。

“写真家に傑作か愚作かの区別なんてつくわけがない。価値判断できる立場に立たないことが写真家であり、自分の撮っているものがクズなのか宝の輝きなのかまるで分からず撮るのが写真家だと思う。”

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